炭坑夫の末裔たち

かつて炭坑で賑わったまちの日常譚。飽くまでフィクション、です。

蓮田んぼ

とあるお婆さんから聞いた話。

このお婆さん、今では平気だが長いこと蓮根が苦手で食べられなかったそうだ。

 

現在は残っていないが、かつてはこの町にも蓮田んぼが結構あったらしい。

このお婆さんがまだ中学生だった、太平洋戦争中の昭和17年8月のこと。

大きな台風が上陸、その日は朝から激しく雨が降っていたが、夜中になりK川の西側堤防が決壊し大水害となった。

あれよあれよという間に水が天井まで溢れてきたという。

泥水の中を泳ぎ屋根まで登る、あるいは天井裏から屋根を突き破るして危うく難を逃れた人はよかった。

死者は県内で700人以上、この町だけで300人近くになった。

 

戦争中ということもあったのだろう、人手は多くない。散乱した建物の残骸を片付けるのも手一杯だ。

身元の不明な数多くの亡骸はとりあえず蓮田んぼに集められ、泥水面に浮かべられた。

集めたはいいが、しかし皆んな忙しく、手が回らないのである。残暑厳しい時期、亡骸は1週間以上のあいだ蓮田んぼに放置されていたらしい。

 

数十年間その光景が忘れられなく、蓮根を口にすることが出来なかったそうだ。

 

首長選挙

来月、この自治体の首長選挙が行われる。

当初、どうせ大した対立候補も現れず1期目を任期満了する現職が再選して終わりだと思われていた。元より私も地元政治には関心が薄く、とくにこの選挙は投票に行くこと自体が馬鹿らしかった。

 

しかし、ここに来て俄然、雰囲気が盛り上がってきた。私も行く末に興味が湧いてきた。

昨年、役場を退職したOBが立候補したのだ。

 

思わぬダークホースだった。政治家としての知名度は殆ど無いが、あれよあれよという間に支持が増えていった。

議会や役場職員にはアンチ現職が多い。その上、対立候補は政権与党の推薦を受けている。前首長も応援しているし、後援会長は元炭坑主の血筋を引く地元の名士だ。商工業者も、とくに中堅以上は新人候補を応援しているのではないか?

また、現職とは違って地元出身である点もアピールしている。

 

現職は元県議会議員で、そのころから女性、高齢者の生活をテーマに活動してきた。

もともと東京の出身だが、この町に来て行政サービスの貧弱さに不満を持ち市民運動に関わったのが政治家としてのスタートだ。

首長就任以来、戦前よりずっと続いてきたこの町の雰囲気からの脱却をはかった。

破綻寸前の財政を立て直すために公共事業を大幅に減らした。一方で、昔から自分がテーマとしている、子育て支援や高齢者サービスには力を入れた。

この辺の方針や施策について、私は評価を下すほどの見識を持ち合わせていない。ただ、傍から見た印象としては、パフォーマンス好きな人という印象。また、やることに深みが感じられなかった部分もある。どこかがやった話題の施策をそっくり持ってきたり、受けのよさそうなテーマに表層的に飛びつくタイプかな、と思えた。

また、付き合いにどうも脇が甘いのでは?とも感じられた。この町で暮らしている人間なら知っているインチキ臭い連中や、マルチ紛い、無認可共済ギリギリのヤバイ集まりにも、呼ばれれば簡単に挨拶に出てしまうこともあった。ただ同情するわけではないが、役場内は敵ばかりで支持してくれる仲間が少なかった事情もあるとは思う。

 

それぞれの陣営は、じわりじわりと相手候補に対するネガティブ・キャンペーンをしかけている。

 

数年前、地元T公園内の湖に集う白鳥から鳥インフルエンザウイルスが検出された事件があった。現職はすぐに公園内の野鳥300羽以上を処分することを決定した。私には正しい判断だったと見えたが、新人候補側はこの決断を槍玉に挙げ、「地元民ではないからこその冷酷な行為」と非難する。

また、公共事業の削減により地元建築関係業者の仕事が減り、地元経済に打撃を与えていることを指摘する。

この町にはこの町にあったやり方がある、分かってないやつは引っ込んでろ!というわけだ。

その他に新人候補支持者からは、「現職のヒステリックな性格」、「裏表の激しさ」、「いかに年寄りや女子供は騙されているか」などがよく語られる。

 

対して現職側は、新人候補支持勢力を「既得権益を失いたくない抵抗勢力」、「町に巣食うシロアリ」、「仲良しクラブ」と呼び、新人候補者の器を疑問視する。

 

さて、自分から見える範囲でになるが、現時点では新人が有利のようだ。現職側も危機感を強めている。

私はどちらも応援する気はない。どちらが勝ったとしても、敵陣営への冷や飯待遇が予想される。

 

この選挙、町にとって案外と歴史的なものになるかも?しれない。

 

歩車分離式信号

鈴村サチエさんはとうに70歳を超えていたが、そうは見えない程に元気だった。

背は低く150cmあるかどうか。短髪できつめのパーマ。とがった顎に妙に落ち着いた目つき。ちゃきちゃきとした感じは歌手のチータのイメージに近いが、ずっと男らしかった。

カラッとした性格だが、マイペース。人の話は聞かない、というか自分の話ばかりをまくしたてて、それを疑問に思わない。このタイプは炭坑出身の年寄に多い。

御主人は若いうちに亡くされ、子供さんは東京にいるらしい。

 

もう何十年間も、とある老舗商店の自宅でお手伝いさんをしている。

「もう、アタシもトシでしんどいから、ずっと『辞めたーい辞めたーい』って言っちょるんじゃけどね。『サチエさんがいなくなると何にも分からなくなるのよ。お願いだからもうちょっと居てちょうだい』って頼まれるから。ホント、アタシしか分かるモンがおらんからね。仕方なく続けちょるんよ。」

 

仕事先からサチエさんの自宅まで300mくらいしかない。歩いても数分。サチエさんは自転車で通っていた。

夕方、仕事から上がってもサチエさんはまっすぐ家には帰らない。途中、商店街で何カ所も道草しては今日あったことを喋っていく。

だいたい夕方4時過ぎには仕事から上がるのだが、サチエさんが家に着くのは7時近くになるのが常だった。

 

寄り道先の中でも、絶対に欠かせないのはTという酒屋だ。ここは角打ちをやっている。

角打ちというのは店先に立ち飲みできるスペースがある酒屋だ。飲食店ではないので、基本的に食べるものは出せない。が、店先にあるチーズやらサキイカやらを各自が買ってその場で開けてつまみ始めるのは、これは止めようがない。もっと腹が減った向きにはカップ麺が置いてあるし、ご丁寧にお湯が沸いたポットもある。朝9時くらいから開店しており、酒が好きで人恋しくて時間はあるという人たちが集まって来る。まさに大人の駄菓子屋だ。

炭坑全盛期は角打ちは大繁盛した。炭坑出口すぐに構えた店は儲かってたまらなかったという。何杯も飲んでしこたま酔ってる客には、少々薄めて出してもバレなかったそうだ。最近では数が減ったが、この町にはまだ数軒がのこっている。

 

飲んで喋っていい気分になったサチエさんはTを出て自転車を押した。

「もっし、もっし、カメよ~、カメさんよ~♪」

ごきげんなとき、なぜかサチエさんはこの歌を口ずさむ。

 

ここからサチエさんの家に帰るには、ひとつ交差点を渡らねばならない。

せっかちなサチエさんは、横の自動車用信号が黄色になったらソワソワと体制を整え、赤に変わったら、前の歩行者用信号が青に変わるのを待たずに飛び出すのを常としていた。彼女にとって信号というものは若い時からずっと、そうするものだった。

 

しかし、ある時この交差点の信号は「歩車分離式」に変わってしまった。

 

歩車分離式になって初めての日。

その日も、サチエさんはこれまで何十年と続けてきたいつもの手順で横断歩道へ飛び出した。

だが、横から来た車に思いっきりクラクションを鳴らされ、運転手からは凄い形相で睨みつけられた。

何がどうなってるのかさっぱり理解できなかった。

いつもと同じで、ちゃんと横の信号を確認したのに・・・。

どうにかこうにか交差点を渡って、すぐの商店に入り、今の不可思議な体験を話した。

商店主は、今日から歩車分離式信号に変わったこと、横の信号ではなく前の歩行者用信号を見なきゃダメだと諭したが、サチエさんが理解、納得したようには見えなかった。

 

年をとってから新しいことを覚えるのは難しい。ましてや、今まで当たり前にやっていたことのやり方が変わってしまったのだ。

なにか自信をなくした感じもする。

サチエさんは、この交差点を渡るのが怖くなった。どうしても新しい信号になじめず、遠回りをして帰るようになる。

 

サチエさんに変化が現れたのはそれからすぐのことだった。

いや、歩車分離式信号が原因だとは決して思わない。サチエさんもそういう年齢になったということだ。

寄り道先でサチエさんは筋の通らないことや妄想じみたことを喋るようになった。夜中に包丁を持った男が家の中をウロウロしていると語るのを聞いたこともある。千円札と一万円札の区別がつかなかった時もあった。

 

それから暫くして、東京で子供さんと一緒に暮らすようになったと聞き、近所の者たちは少し安堵した

その1年くらい後、角打ちのT酒店も閉店した。

ユウさん

ユウさんは不動産屋だ。

賃貸も扱うが、どちらかと言えばコツコツするより、中古の大きな物件を年に数回動かしてあとはユタリと過ごすのを好むようだ。

だが小さい仕事もやらないわけではない。滞納など賃貸絡みの厄介な後始末やアウトローなややこしい相手が絡んでいるトラブル処理であってもきちんと仕事をこなすのは流石にプロだ。もちろんそれなりのところに顔が利く。

 

ちょっとくたびれた感じだが、見ようによってはショーケンに似ていなくもない。

酒はかなり好きなようで、いつ会っても二日酔いに見える。

 

この前、郵便局で見かけたときは初老の男性と一緒だった。朝9時過ぎ位だろうか?ユウさんはまだ昨日の酒が残っているようでトロンとした目つき、やたらとシャックリをしていた。

初老の男性は不動産の買主、ユウさんが裁判所の競売で落とした物件を転売するようだ。大抵こんな場合、ユウさんは資金を全く持っていない。競売で落とす時点から、最終的な買主となるこの初老の男性に全て出させている筈だ。ユウさんはダンドリを組んで手続きをする。しかし、それだけの手数料としてはちょっと多めのものが懐に入ってくるのだ。ユウさんは、ほとんどノーリスクでありながら、そこそこのキャピタル・ゲインを得ることができる。

 

聞くとこれから法務局へ行って登記するとのこと、数十万円分の印紙を買っていた。

窓口の若い女の子に代金を支払おうとしているが、酒が残っている為かスムーズに札が数えられない。

ユウさんはため息混じりにつぶやいた。

「新札は指が滑ってイケんっちゃ・・・」

 

代金を受け取った窓口の子も枚数を確認する。

新札など1枚も混じってすらいなかった。

 

ユウさんは、こんな人だ。

この町のラーメン

国民食ラーメン。ダシ、麺、具、調味料・・・地域によるバリエーションの豊かさは蕎麦、うどんと比べてもカラフルだ。

 

もちろん、この町のラーメンにもこの町の味がある。

スープはかなり濃厚なとんこつ醤油。ゆっくり食べていると幕が張る。食べ終わった後は口の周りが獣臭くなる。同じとんこつでもあっさりした博多風とはだいぶ違う。筑豊、北九州、久留米などが近いと思う。旧炭鉱地帯、工場地帯という共通点はたまたまだろうか?

東京に比べれば小さめのどんぶり。もともと食事というよりもおやつ、飲んだ後の〆という位置付けからか。食事にしたい場合はおにぎりやライスをつける。メニューに大盛はあるが、その代わり替え玉の習慣はない。

 

このタイプを町の味として定着させたのはIという店の功績だろう。「この町を代表するラーメンは?」と聞けば誰しもが真っ先にIの名前を挙げる。

市内に数店舗のチェーン店がある老舗だ。基本的に粗野でえぐいスープが特徴だが、チェーン店全体で微妙に味が統一されていない。さらに同じ店でも行くたびに味の濃淡や麺のゆで具合がまちまちで安定しない。町の者はみんなその問題点を知っているし、冗談とも愚痴ともつかず批判するが、それでも皆ここのラーメンが好きなのだ。そもそもラーメンというのはそういうテキトーでざっくばらんな物だったし、それで充分と思う。

一方、「美味いと思う店は?」と聞かれた時に多くの人が挙げるのがUS駅前のSという店だ。店はオバサンばかり2~3人で営業されている。基本、Iと同じタイプのとんこつ醤油だが、えぐみのない非常に丁寧で品のある味になっている。女性ならではの細やかな配慮が寄与した味だろう。

 

だが、この2店も含め町のラーメン店の大多数が抱える問題がある。

それは、麺が軟らかすぎることだ。

 原因は解っていて、この町の飲食店の大部分に卸しているK製麺の麺が軟らかいからだ。

K製麺の会長さんと懇意にしているある人が、このことで苦言を呈したことがある。

だが反対に、軟らかい麺というのがいかに良いものか、K製麺はそれを目指してきたこと、そしてそれが今ではK製麺のウリになっていることをたっぷりと聞かされたそうだ。

 

そういえば、確かに自分も昨今の固麺ばやりには飽きがきている。

うどんも讃岐うどんのようなコシのあるタイプが良いとされ、九州や大阪のような胃に優しそうな麺が低く見られる傾向にある。パスタもアルデンテと生煮えを混同したようなのが罷り通っていたりする。バリカタとか言ってお湯が足りなかった時のカップヌードルみたいなのを有難がったり。ご飯だってシャキッとしたご飯と単に芯のあるご飯とが一緒くたに扱われている。そんな状況にウンザリ感じるときも増えてきた。

コシがあればいい、堅めだったらいいという安易な判断が横行していて、当に美味いのはなんなのか自分で感じたり考えたりすることを放棄してないだろうか?

 

そんなことを思いながら、今日の昼はIでラーメンを食べた。

 

でもやっぱり、これは軟らかすぎる。

 

ソネちゃん

3人兄弟の末っ子としてソネちゃんが生まれたのは戦後ベビーブーム時。団塊のど真ん中にあたる。

この炭坑町でも最も数が多い世代だ。

団塊世代をピークとする出生の減少に、この町の衰退が追い重なっている。そのため、日本全体の世代分布と比べてもより極端に団塊世代の割合が高く偏っている。

彼らが子供のころはまだ炭坑があり、活気があった。子供の数も多くて、小学校のマラソン大会の日は地響きが轟き、簡素な炭鉱住宅はガタガタ揺れたそうだ。

 

炭坑が開かれる前、この町は小さな農村だった。石炭が町のメイン産業となってからは農地はどんどん減り続けたが、町の中心部も元は田畑だったのだ。

ソネちゃんの家は昔からの農家で、かなり広い面積の農地を持っていた。

しかし、炭坑の発展につれ宅地・商業地の需要が高くなり、農地をつぶして貸すようになる。そんなわけで、ソネちゃんの家はかなりの貸地をもつ資産家だったのだ。働かなくても充分食べていけるし、実際ソネちゃんはそうやって人生のほとんどを過ごしてきた。

 

子供のころからソネちゃんは体が小さいほうだった。頭には10円ハゲがいくつもあった。甘やかされて育ったためか学校でもあまり努力するタイプではなかった上に、努力なしに優秀でいられるほどの知能でもなかった。

そのため、同級生からバカにされ、からかわれることも多かったという。ソネちゃんもバカにされるのは嫌だったのだろう、次第に虚勢を張るようになる。

いかに自分の家が金持ちか、名士であるか、いかに自分が本当は凄い奴かなど。最初は尾ひれのついた自慢話に過ぎなかったが、だんだんと純粋な妄想を語るようになる。

するとますます同級生からからかわれる。

「ソネちゃんは1つ嘘つくたびに1つ10円ハゲが増えよる。じゃけぇ、ソネちゃんの頭はハゲだらけじゃ。」

 

高校卒業後、地元の工務店に就職する。就職と言っても、行けば日当貰える日雇いだ。

頑張って技術を習得するでもなく、ただ小間使いばかりで数年過ごした。後から入った若いのにドンドン立場を逆転される。ソネちゃんは酒の力を借りて傷ついたプライドをいたわった。

ソネちゃんは酒癖が悪かった。飲み屋に行っては女の子相手に、空想上の凄い自分のホラ話を吹きまくった。そばで聞いてた意地の悪い客が、嘘つきソネちゃんをからかう。勝てるわけのない相手に喧嘩してアザをこしらえることも多々あった。

二日酔いでアルコールが残った状態で仕事に出てくるのはまだマシな方で、朝目覚めてから1杯ひっかけて出てくることもある。昔は今と比べて飲酒運転に甘かったが、それでもこの状態で運転してくるのだから、いくら近所だからといっても危険だ。

コネで雇ったという事情から経営者もなかなか言い出しにくかったろうが、ようやくクビになった。

 

一時期、自動車整備工場に出ていたこともあったが、そこでも酒で失敗する。朝から飲んで出社したあげく、車を2台もつぶしてしまったのだ。

さすがに1カ月もたなかった。

 

ソネちゃんの話にはホラが多いが、ソネちゃんの家はかなりの地主なのは本当だった。時代が平成に入ってから、大型駐車場をもつスーパーやファミリーレストランが出店したが、その土地はソネちゃんの家が貸していたのは事実だ。

ただ、地主であるだけで、経営者やフランチャイジーではない。でもソネちゃんはそれらの店舗を「オレの店」と呼んでいた。

昼間、近所の商店経営者と顔を合わせると「今度オレの店で飲もうよ!オレ、タダだからさ!」と吹いた。おそらく地主さんへの季節の挨拶に食事券でも貰っていたのだろう。

ソネちゃんの家から歩いて15分位離れたところに24時間営業のファミリーレストランがある。そこで朝6時くらいから生ビールを飲むのがソネちゃんは好きだった。仕事に出ようという時間に、顔を赤くしたソネちゃんが帰るところに出くわすこともよくあった。

「今、オレの店で飲んできたとこ!今度一緒に行こうよ!」

実際そこはソネちゃんと全く関係のない、地主ですらない店だったが、ソネちゃんの中では「オレの店」になっていた。

 

そんな日々を積み重ねて、ソネちゃんは還暦を過ぎた。

ふっと、振り返って寂しかったり、悔しかったりするときもあったのだろう。

それを紛らわすために酒を飲む。癒しきれずに家で暴れるようになる。

同居する老いた母親もついに耐えられなくなり親戚に相談した。

 

ソネちゃんがアルコール依存症治療専門の病院に入って、もう5年近く経つ。

産学官

ゴールデンウィークも終わり、日差しが強い。

この季節になると、町には海側からの風が吹き込む。

海側の風は暖かで適度な湿り気があり、それ自体は快適だ。ただし鼻が詰まっていればの話であるが。

海からの風は、上陸時に海岸のコンビナートから強い刺激臭を拾ってやって来る。

 

臭いには数種類があり工場や時間、風向きによる。

ビニールを燃やしたような臭い、ラーメン屋の排水溝のような臭い、体調不良時の屁のような臭い・・・などなど。海岸近くにある大型ショッピングセンターは町の住民に親しまれているが、ここの駐車場で車を降りると途端に頭が痛くなるという経験は多くの人に共有されている。

また臭いは無くても目がちかちかしたり、喉が痛くなるケースもある。

気のせいか、目が充血している人や、咳が激しい人が多いようにみえる。

今年の春は中国大陸からの黄砂とともにPM2.5が話題になった。テレビやネットの情報で不安をかきたてられた方も多い。だが、大陸からのPM2.5よりも先にこの町で発生しているものを心配するべきだろ!?と自嘲気味に居酒屋談義にのぼったものだ。

 

そうは言っても、これでもまだマシになった方、らしい。

昭和30、40年代は本当に酷かったようだ。まさに今の中国のように町全体に靄がかかっていたそうだ。それをコンビナートを運営する地元企業、自治体、地元の大学が協力して劇的な改善を成し遂げた。それはU方式として知られ、今では公害問題を抱える途上国から視察が来るほどだ。この町は産学官連携により、そして市民みんなの協力により美しい空気を取り戻した、と伝えられ、学校でもそう教えられている。

でも、水を差すようで恐縮だが、ひとこと言いたい。

「この町の空気は今も決してキレイではない!」と。

 

炭坑夫というと我の強い荒くれ者の集まりと捉えられがちだが、現場では一人の勝手な行動は全体の命を危険にさらすことにもつながる。基本的には和をもって尊しとなす社会だ。ポジションによっては思考停止も重要だったりする。多くの人は上からの言葉に従順である。悪く言えば烏合の衆だが、ここではそうあることが上手に生きる秘訣だ。

今もこの町に残るそんな気風は炭坑時代から連続するのだろう。

この企業城下町を治める工場が語る、市民の力で美しい空気を勝ち取ったというストーリー。

それに疑問を挟むことは、野暮なことなのだ。それは解っている。