S川市まつりの香具師
この町には、いわゆる市民祭りと呼べるものが2つある。
ひとつは11月初めの文化の日に絡んで開催されるUまつり。もともとは炭坑祭りと呼ばれていた。日頃の炭坑労働をねぎらい、気分晴らし憂さ晴らしのために開かれていた祭りだ。農民たちが収穫祭を開く時期、炭坑労働者も何か無礼講の祭りがあってもいいじゃないか、という発想だったのではなかろうか?
現在のUまつりは、学園祭のようなノリの祭りである。芸能人のステージがあり、各事業所や団体がパレードしたり、屋台出店をしたり。昔は炭坑ごとに参加していたのではなかろうか。
今でも山車には炭坑祭りの名残がある。側面には炭坑で働く労働者たちのレリーフが飾られているのだ。ぱっと見ではピラミッド建設を描いた古代エジプトの壁画のようにも思えるが、よく見れば皆ヘルメットをかぶっている。
そしてもうひとつが、GW中に開催されるS川市まつりだ。
歴史はUまつりよりもずっと古く、もともとは江戸時代にN神社の周辺で開催された市が起源だという。
しかし、動員数や盛り上がりはUまつりに比べて劣る。GWは県外に遊びに行く市民が多いのだろう。よさこい等のありがちな催しが行われる他は、商店街での古本市くらいか。
あとはテキ屋の屋台が主役だろうか。
林檎や苺、バナナといった果物に飴やチョコレートを絡ませたモノを売る屋台。閑古鳥が鳴いている。ヤサグレた茶髪のおばさんがタバコを吸いながら暇そうにしている。以前、チョコがかかった苺の串を買ったことがある。口に入れると苺の酸味とは異なる、ヨーグルトのようなキツイ甘酸っぱい臭いが鼻から抜け、その場で吐き捨てた。
おもちゃが当たるクジを1回100円でひかせる屋台。ゲーム機やら大きなぬいぐるみがぶら下がっているが、決して当たることはない。ムキになった子供は何回でもチャレンジするが、スーパーボールしか貰えない。
「おかしいなあ~、こんなに当たらんことは今まで無かったでえ。ちゃんと、当ててえや!」
まさに子供騙しである。
ところで、昔からこの町ではズルイことをする人間のことをして、「S川市の香具師みたいな奴」と呼ぶ慣わしがある。
ゲームなどでキタナイことをする相手に「S川市の香具師みたいなことすんなや!」などと使う。
商売人にとって、「あいつはS川市の香具師みたいな奴だ」と陰で言われることは最大の屈辱だ。
LL軒の思い出
先日LL軒の前を通りかかったら駐車場にユンボが置いてあった。完全に閉店してから何年経つだろうか?ついにこの建物も解体されるのかと思うと若干寂しくもある。
LL軒は昭和40年頃に開店した中華屋だ。評判の味で、この町では知られた繁盛店だった。
店主には二人の息子がおり、彼らに店を継がせるつもりだった。時代がバブル景気に浮かれ始めた頃、兄弟は相次いで成人した。息子達は真面目な店主と違ってギャンブルが大好き。雀荘、オートレース、パチンコに入り浸っては借金をこしらえてくる。日銭が入る繁盛店のドラ息子たち、ということで雀荘では悪いオトモダチが寄ってきた。
そんな二人だったが、父親が病に倒れたのを期に店に出るようになる。
調理担当の兄は筋肉質で、いつも黒いTシャツに黒いズボン、頭頂部の薄毛が特徴だ。一時期はS駅前のアデランスに通っていたこともあるらしいが、メンテナンスに金がかかりすぎるので、どうでも良くなって禿を晒すことにしたらしい。
弟はフロア担当だ。いつも白い割烹着、坊主頭で丸っこい体型。イカ天に出ていたバンド、たまのドラムによく似ている。
二人が継いで以降も店の人気は続いた。働き盛りも満足のボリュームと親父さん仕込みの味付け、なによりも譲り受けたスープが秘訣だった。
人気店ではあったが、彼らはさらに上を目指そうというタイプではない。ある程度の稼ぎが入ると店を閉めてオート、ボート、麻雀などに出撃だ。
一度休み始めると1週間は店が開かない。勝てばやめられない、負けてもやめられない。資金がカラになるまで店には戻らなかった。
それが客の飢餓感を煽るのか、ふと再開すればドーッと客が押し寄せるという、見方によっては幻の店的な存在になっていた。長いこと休んでも開ければ客が入るのだから、二人に危機感はない。
店を閉めては遊び、スッカラカンになっては店を開いて日銭を稼ぐ。そんなムシのいいエコシステムも上手くは回らない。家賃、光熱費、掛での仕入れなど後払いの金に手を付けるのは勿論で、現金で食材を仕入れることも出来なくなった。
兄弟は日掛ローンに頼るようになる。日掛ローンというのは西日本の一部地域で慣習的に法認されていた貸金屋で、顧客を零細事業主だけに限定するという条件付で利息制限法の規定をはるかに超える高金利が認められている。ちょっと前までは、なんと100%を超える年利もOKだった。
日掛の特徴は、借主は毎日一定金額を返済していく点だ。ある程度の利益率があり資金の回転率もそこそこの商売人なればこそ借主側にもメリットがあったのだろう。
とはいえ、あんまりの高金利である。もはやギャンブルから遠ざかっても、兄弟にとってこれを消化して商売を継続するのは現実的ではない。
さらに、不摂生や心労のためか二人とも体調を崩す。二人が揃って糖尿病となったのだ。
疲れやすく、体調不良を原因とする休業が目立つようになる。
「兄貴が体調を崩して・・・」
「弟の具合が悪く・・・」
「バイトの子が急に休むって言いだして・・・」
その度に店を閉めた。
ただ、糖尿病だというくせに二人とも缶コーヒーを毎日何本も飲む習慣は止められなかったようで、その辺のいい加減さが周囲の顰蹙を買いもした。
ある日、掛のたまった取引業者の従業員がパチンコ屋で弟に出会った。弟は狼狽して「いや、ちがう、ちがう!人を探しに来ただけだから!」と言って逃げて行ったそうだ。このようなエピソード、噂話も彼らへの同情を削いだ。
店の前には常に「女学生バイト募集」と張り出されていた。いつ開いてるのか判らないような店にバイトが定着するわけがないのだが。
以前、定時制高校に通う女の子がバイトしていた。ある日、彼女の担任の先生がやってきて、授業に出ずにバイトする彼女を学校へ連れ戻していった。その時も二人はバイトがいなくなったを理由にしばらく店を休んだ。
募集は継続したが、その後バイトの応募は1件もなかった。
店を休む時は入口に張り紙がされた。
「都合により本日休業します。
明日、X月X日X曜日より営業します。」
大抵の場合、それは嘘に終わった。翌朝、その貼り紙は、さらにその次の日から営業するという内容に貼り替えられた。
彼らは、店を休む日であっても、毎朝8時前には店に来た。
親父さんから受け継いだスープに火を入れるためである。親父さんから受け継いだスープは、減っては少しずつ足すを繰り返しずっと大事にされていた。
「このスープが駄目になったら、もう店を閉めなきゃならない。」
弟は以前そう語っていた。
しかし、これで堪らんのはプロパンガス屋だった。
営業はしない=金は入らない=支払いは出来ない。なのに宝物のスープに火を入れるとか言いながらガスはガンガン使う。
ガス屋の担当者は日掛金融よろしく、毎日集金に行った。
毎日通っているのだが、実は担当者はこの店で一度も食べたことがない。回収が全部終わったら、その日には評判のチャンポンでも食べて帰ろう、それまでは絶対にここでは食べないと決めていた。願掛けというよりも意地だった。
しかし前任者時代の掛金も溜まりに溜まっているうえに回収が追いつかない。回収するよりも使うガスの方が多いのだ。
ついにガス屋はLL軒にこう伝えた。
「1週間待つから、その間に新しいガス屋を見つけてくれ。1週間後にはうちのボンベを引き上げる。」
こんなリスキーな顧客、引受け手がいるのか不安はあったが、無事に新しいガス屋が決まった。一般的にはガス屋にとって中華料理店は大量にガスを使ってくれる優良顧客である。野心的な業者が話に乗ってきた。
だが早くも半年後、新しいガス屋はこう漏らしたらしい。
「しょっちゅう休むとは聞いていたが、ここまでだとは思わなかった・・・」
LL軒が最後に営業したのはいつだったか、ハッキリと憶えている者はいない。
いつしか「明日から営業します」の張り紙も見られなくなり、台風で破れたままだったテントも取り去られ、プロパンのボンベも外され、サンプルが並んでいたガラスのショーケースもなくなった。町で兄弟を見かけることもない、どこかへ行ったのだろうか?
前述のガス屋の従業員は、結局LL軒で食べず仕舞いだった。
もう永遠に食べられないのだと思うと、意地を張っていたことを少し後悔した。
ヤエさん
松井ヤエさんは長崎の出身だ。原爆が投下されたとき中学生だったというから、今はもう80歳を超えている。
本人の話によれば、若い頃に長崎市内でも老舗の商店に嫁いだそうだ。しかし、ヤエさんが某新興宗教に入信し熱心に題目を唱えるようになったために家を追い出されてしまったらしい。その後、どういう経緯か知らぬがその宗教関係者の伝手でこの町にやってきた。
ヤエさんの主な収入は生活保護だ。加えて被爆者として年金だか補償だかも僅かに受けていると言っていた。
今は落ちぶれているが、かつては老舗の若奥様だった。自分は元来イイトコの人間だという思いがヤエさんにはある。生活保護の申請をするときに、借家の家主にこう頼みに来たそうだ。
「もし市役所の人がこちらに来て何か尋ねても、ワタクシが毛皮のコートを持っているってことは内緒にしていてくださいね!」
もちろん決して裕福ではない。体も丈夫とはいえず家は荒れ放題荒れている。しかし出かけるときは、貴婦人のような洒落たお帽子を斜めにちょこんと乗せ、レースの手袋をはめ、日傘をさすのだった。
行先は大抵、市内唯一の百貨店。フロアを見て回り、ごく稀にお菓子など買って帰る。以前、「子供さんにあげて」と割と高めのプリンを頂いたことがあった。ヤエさんに悪気はないと思うが、残念なことに賞味期限を1週間も過ぎていた。
ヤエさんは家賃や光熱費その他、掛がきくものの支払いを滞らせていた。
収入はギリギリではあるが暮らせないほどではない。でもいつも金は足りなかった。
ヤエさんが信心する教団では、貧しい信者仲間に施すことを勧めていた。人のことを構っていられる余裕なんか全然ないくせに、ヤエさんは近所の貧しい信者仲間に自分の生活保護費から食事やらなんやらと世話を焼いた。
この信者仲間というのもちょっと曲者だ。ヤエさんの暮らしぶりを知っていながら、いろいろとセビり、タカっていると近所で評判だった。
また、近所の婆さん連中と頼母子講を毎月やっていたそうだ。商売人連中のそれと比べれば僅かな金額ではあるが、ヤエさんには毎月5,000円はでかいと思うし、しかもいつ破綻するか判らないような人達の集まりだ。
信者仲間にイイカッコするために、ヤエさんは近所のヤバそげな女からトイチで借金していた時もあったようだ。
その女が集金に来たところを見かけたことがある。背は低くて固太りな感じ、髪は長いがイエティのようなザンバラ髪でプリン化した茶髪。
なによりも忘れられないのが、あの小さくて不快な目だ。数年前、F県O市でヤクザの家族が息子の友人など4人を次々と殺害するという凶悪な事件があったが、その逮捕された家族と同じ眼付だった。
数年前、ヤエさんは高齢者向けの施設に入った。それ以来、見ていない。
オールド・ルーキー
島本氏は今年で72歳になる。
父親は土建業を経営しながら、昭和30、40年代には長らく市議会議員を務めた。
当時この町は高度成長の活気に溢れていた。そこの利権を握っていた。周りの建築屋や労働者からはチヤホヤされまくった。島本一家の下品で成金的な羽振りのよさは市内に広く知れ渡っていたらしい。
島本氏は半分コネで入れそうな私立大学を卒業後、これまたコネで市内にも支店を持つ近県の地方銀行に就職した。
長男である島本氏はいずれ父親の地盤を継ぐものと、家族の誰もが思っていた。そして平成に入った頃、50代前半にして銀行を退職し故郷に戻ってきた。
誤算があったとすれば、父親が亡くなるのが早かったことか。父親が亡くなってから島本氏の帰郷までちょっと長いブランクが空いてしまった。
帰郷後は父親が残した会社、有限会社島本商事の代表取締役の肩書に収まった。とは言え、父親が亡くなってからの島本商事は登記簿上こそ存在すれど、もう十年以上も仕事らしい仕事をしたことがない幽霊会社のようなものである。
島本氏も人を集めて仕事を取ろうと試みるが、そんなに簡単にいくものではない。それでも父親のよしみでの応援を受けながら生活は出来た。
しかし、故郷に戻ってきた最大の目的は市議会議員になるためである。
かつての父親の支援者たちに声をかけた。しかし時は確実に流れており、既に他の議員を支持していたり、後援会活動にエネルギーを費やせる余裕がなくなっていたりで数は減っていた。それでもなんとか活動はできそうだ。
ここからが島本氏の苦闘の始まりだった。
支持者はなかなか思うように増えなかった。むしろ、氏の評判はよくないとさえも言える。
最大の理由は氏の姉だ。
昔の漫画やテレビドラマでステロタイプに描かれる下品で勘違いした成金、それがそのまんまリアルに現れた感じなのだ。女優の塩沢トキあたりなら面白おかしく上手に演じてくれそうだ。
姉は父親が議員だった頃、市役所にコネで就職した。だが、あまりにも高慢で、加えて仕事が全然できなかったので扱いに困っていたと聞く。あちこちの部署で引き受けを拒否されたが、ついにはナントカ会館の責任者という、肩書も見栄えがして、なおかつ実務は何もしなくてよいポジションで長らく過ごしたようだ。
父親が土建業+議員の利権でウハウハだった頃は、市内唯一の百貨店で下品に買いまくっていたらしい。彼女曰く「あの店の柱の1~2本はワタシのおかげで建ってるようなもんだから。」。
そして没落した現在もその気位が捨てられないのだ。
選挙活動が始まると、その横柄さはさらに目立った。
支援者、近隣の事業所を回ると、いちおう付き合いでそこの従業員たちが出迎えてくれる。しかし、そこで頭を下げるでもなく上から目線で、
「あなた住民票はここの市内?あら、そう、じゃあ今度の日曜、よろしくね。」
である。総理大臣の奥さんだって、有権者には頭を下げて御酌をして回ったりするのに。
島本氏自身もかなり横柄な方ではあったが、姉と比べると好人物にすら思える。
「島本だけならいいが、あの姉さんがいる限り応援は出来ん。」
そう言って去っていく支援者もいた。
何度も何度も出馬しては、惜しいところで落選し続けた(もっとも市議会議員選挙なんて、落選者よりも当選者の方がはるかに多いのだが。)。
ついには父親の代から住んでいた屋敷も借金のために競売に掛けられてしまった。
仕方ないので借家を探すことになった。が、ここでも姉は市内でも昔からの金持ちが住む地域にこだわった。そのため古くてぼろかったが、彼女は満足した。
土建業であるとか、生まれ育った地域とかにコンプレックスを持っているようで、それが態度に表れることで余計に父親の頃の支持者が離れて行った。
そんな島本氏であるが、10年くらい前に1度だけ当選したことがある。
定数32、候補者36のうちの最下位当選ではあるが、4年間は議員だった。
当時、市役所の職員はこう言っていた。
「あの人は議会でも本当に幼稚な質問ばかりしよる。周りで笑いよるのが聞こえんのじゃろうか?」
任期満了後の選挙では次点で落選した。
かつての支援者に宛てた今年の年賀状にはこう書いてあったそうだ。
「八十歳までは出馬します」
今年72歳。多くの議員は引退する年頃だ。
高齢者カップル
偽装離婚、偽装母子という言葉がある。事実上は夫婦関係が続いていても離婚届けを出す、あるいはほとんど夫婦同然の暮らしをしていても婚姻届を出さない。要するに、生活保護費を多めに頂戴するための悪知恵である。
大村トキさんと浦川氏は、二人とも70歳を超えてから出会った高齢者カップルだ。そして二人とも生活保護を受けている。
実際には二人で浦川氏の家に住んでいるのだが、トキ婆さんも自分で借家を借りていた。普通に考えれば、一緒に住んでいるのなら1部屋分の家賃がもったいないとなる。しかし、こうすることで2世帯分の勘定で生活保護を受け取ることが出来た。トキ婆さんのあばら家の家賃13,000円/月を払っても、なお得なのだ。
社会福祉課のケースワーカーも薄々気づいていて、「一部屋解約して二人で一緒に住んだらどうか?」と何度も勧めている。だが、二人は交際は認めるが一緒に暮らしていることは頑として否定し続けた。
二人とも、若いころを無軌道に過ごしてしまったようで年金は無い。ケースワーカーもこの二人の保護費が食うのにギリギリだということが判っている。若いチンピラヤクザと水商売のネエチャンの不正受給とは違う。冷血に深く追求するようなことはしなかった。
小柄なトキ婆さんはいつも絣模様の着物だ。洋装しているのを1度も見たことがない。
真っ白な猫を飼っていた。トキ婆さんは、首輪に白いビニール紐をつなぎ、それを手に持ち、まるで犬にさせるように散歩をさせていた。猫というものは飼い猫であっても勝手に散歩するのだと思っていたが、初めて見る不思議な風景だった。
一時期、うどん屋をやってみたことがある。借家が、もともと一部が店舗として使えるような形になっている建物だった。ちょっと使ってみようと考えたわけだ。近所の知ってる者が食べに行ったりするとサービスしてくれた。ただ、サービスで天ぷらを載せてくれるのはいいが、作り置きのを冷蔵庫から出し、いきなり載せるものだから折角のうどんが冷めてしまうらしい。長続きはしなかった。
近所に、老人相手の催眠商法の店舗が現れたことがあった。卵無料とか食パン無料などで暇で判断力の衰えた老人たちを集め、親切めかした対応で寂しい心を掴み、最後には高額なぼったくり商品を売りつけるアレである。
トキ婆さんも様々な無料品をゲットするためにこのキケンな店に毎日通った。そして、あろうことか何十万円もする布団を月賦で買ってしまったのである。
もちろんトキ婆さんにそんな代金払えるわけがない。月賦が落ちないので、回収の男がやって来る。が、失うものがないトキ婆さんは平然としている。
「わたしゃ、金は全然持っちょらんって言うてるのに、あんたらが、それでもいいからって勝手に布団を持ってきたんじゃろうが?」
最後は男が布団を持って帰って終わった。
浦川氏は、自らを漁師と語っていた。が、実際は漁港の雑用係だった。もしかしたら若い時期に漁師の見習いとして船に乗っていたこともあるかもしれないが。
雑用ではバイト代の他に余った魚が貰えた。それを自転車に積んだトロ箱に入れて帰るのが日常だった。浦川氏のトロ箱は、同じものを何年も使い続けていて真っ黒で、それを洗うわけでもなかった。食べ物を入れるには不衛生で、浦川氏の家に近づくとかなり臭いがした。浦川氏からおすそ分けの声を何度か掛けていただいたが、その都度言い訳をして、ついに一度も受け取ったことがない。
そんな二人だったが、数年前、浦川氏の借家が老朽化のため取り壊されることになった。近所に新しい家を探したが、身寄りのない高齢者、生活保護、しかも個性的なキャラクターと不利な条件がそろっている。
やっと借りられることになった家は、従来の家から歩くと老人なら30分かかるところだった。時間がかかるだけでなく高齢者には体力的にもキツイ距離だ。トキ婆さんも観念したのか、自分の借りてる家は解約して、新しい借家で一緒に住むことになった。
二人の姿はそれ以来、見ていない。
作業服
この町では作業服が好まれる。
他の地域では労務者風と呼ばれるスタイルも、ここではむしろ好感され、特に高齢者の中には仕事衆・仕事師などと敬意を込めて呼ぶ人もいる。
仕事が終わって飲みに行く時ももちろん作業着だ。居酒屋はもちろんのこと、コジャレたバーであっても。それを恥ずかしく思うほうがカッコ悪い。
制服として支給されるものは、より好まれる。特に大手コンビナートの制服は退職後も愛用する人が多い。もちろん、丈夫だという理由もあるが、帰属意識、愛社精神の発露でもあろうし、ブランドなのである。
いい歳をしてなんと幼稚な・・と思う部分もあるが、それがこの町の雰囲気なのだ。
ここでは背広はむしろ胡散臭くみられる。
だから作業着の必要のないデスクワーカーも作業着を着ることが多い。公務員などで特に顕著だ。背広に対して近寄りがたさを感じる市民も多いだろう。作業服のほうが親しみやすさを醸しだすのは確かだ。
親しみやすさだけでなく、作業着のほうが誠実さ、信頼性のある人物だと思われるようだ。
謎の人
各地から炭鉱に集まった人で成り立った町である。そのためかヨソ者に対してもオープンで優しい。
瀬戸内の温暖な風土も影響しているのかもしれない。同じ県内であっても江戸時代に藩の中心であった山陰の城下町とは対象的である。
ただ、このオープンさは時にはユルさとなる。
刈谷(仮名)氏がこの町に来たのは平成10年頃だった。世界遺産に指定されている天守閣が有名な関西地方の町からやってきた。
この町に来てからは有限会社A代表取締役の肩書で建築関係のブローカーのようなことをしている。自分で金づちを握るわけでもなければ、自社に職人がいる訳でもない。ただ、営業して仕事をつくっては大工に下請けさせている。個人事業の大工から見れば仕事をくれる人だ。
言うまでもないことだが、刈谷氏が住みついてから現在まで、この町の景気が良かったことは一度もない。したがって刈谷氏の仕事も順調とはいえなかった。
刈谷氏が住んでいる借家の家主は、この小さな町ではそこそこに資産家だ。そしてそこそこにお人好しでもある。
刈谷氏は、先ずは仕事先の紹介を、ついで家賃の遅延について、さらには事業用の借金を家主から引き出した。人の好い家主はもちろん、その親族、さらには知人などそれぞれに向けたアプローチの仕方で心を掴んでいった。彼からすれば田舎の人間はなんと単純に見えたことだろう。
ついにはハウスメーカーと組んで福祉施設の建設まで家主にさせてしまった。介護士たちのグループが新設する会社への建て貸しという話で、この新会社への出資ないしは貸金の話もセットについてきた。
事業計画は無理があり、さすがに一部親族は反対した。だが刈谷氏の狡猾さ、厚顔さが勝ったようで、いろいろと吹き込まれた家主は刈谷氏の計画どおりに金を出した。
建築をした業者からのバックがどれくらいだったかは不明だが、刈谷氏はそれでは飽き足らず、福祉施設の運営にまで関わろうとした。
結局、介護士グループが作った会社は経営に失敗、数千万円の貸金は戻らなかった。また建物は別の運営会社に当初計画よりもかなり安く賃貸されている。
福祉施設建設の話が出たとき、さすがに刈谷氏を怪しんだ親族が、刈谷氏が経営する有限会社Aの登記簿謄本を取りに行った。なにかヤバいところが絡んでいるのではないか心配してのことである。
しかし、予想はハズレた。そもそも有限会社Aなど登記されていない、存在しない法人だったのだ。まあ、倒産でもしない限り、会社として存在しているかどうかは実際にはあまり関係ないかもしれない。しかし登記なしで有限会社を名乗ることは法に触れている。
もうひとつ。刈谷氏の年齢について。
家主との会話の中では50代と話していた。実際の見た目もそんなものだ。
しかし、家主が賃貸借契約の時に受け取った住民票の記載からすると、軽く70歳を超えていることになる。
実在する「刈谷氏」と住民票の「刈谷氏」は、本当に同一人物なのだろうか?