歩車分離式信号
鈴村サチエさんはとうに70歳を超えていたが、そうは見えない程に元気だった。
背は低く150cmあるかどうか。短髪できつめのパーマ。とがった顎に妙に落ち着いた目つき。ちゃきちゃきとした感じは歌手のチータのイメージに近いが、ずっと男らしかった。
カラッとした性格だが、マイペース。人の話は聞かない、というか自分の話ばかりをまくしたてて、それを疑問に思わない。このタイプは炭坑出身の年寄に多い。
御主人は若いうちに亡くされ、子供さんは東京にいるらしい。
もう何十年間も、とある老舗商店の自宅でお手伝いさんをしている。
「もう、アタシもトシでしんどいから、ずっと『辞めたーい辞めたーい』って言っちょるんじゃけどね。『サチエさんがいなくなると何にも分からなくなるのよ。お願いだからもうちょっと居てちょうだい』って頼まれるから。ホント、アタシしか分かるモンがおらんからね。仕方なく続けちょるんよ。」
仕事先からサチエさんの自宅まで300mくらいしかない。歩いても数分。サチエさんは自転車で通っていた。
夕方、仕事から上がってもサチエさんはまっすぐ家には帰らない。途中、商店街で何カ所も道草しては今日あったことを喋っていく。
だいたい夕方4時過ぎには仕事から上がるのだが、サチエさんが家に着くのは7時近くになるのが常だった。
寄り道先の中でも、絶対に欠かせないのはTという酒屋だ。ここは角打ちをやっている。
角打ちというのは店先に立ち飲みできるスペースがある酒屋だ。飲食店ではないので、基本的に食べるものは出せない。が、店先にあるチーズやらサキイカやらを各自が買ってその場で開けてつまみ始めるのは、これは止めようがない。もっと腹が減った向きにはカップ麺が置いてあるし、ご丁寧にお湯が沸いたポットもある。朝9時くらいから開店しており、酒が好きで人恋しくて時間はあるという人たちが集まって来る。まさに大人の駄菓子屋だ。
炭坑全盛期は角打ちは大繁盛した。炭坑出口すぐに構えた店は儲かってたまらなかったという。何杯も飲んでしこたま酔ってる客には、少々薄めて出してもバレなかったそうだ。最近では数が減ったが、この町にはまだ数軒がのこっている。
飲んで喋っていい気分になったサチエさんはTを出て自転車を押した。
「もっし、もっし、カメよ~、カメさんよ~♪」
ごきげんなとき、なぜかサチエさんはこの歌を口ずさむ。
ここからサチエさんの家に帰るには、ひとつ交差点を渡らねばならない。
せっかちなサチエさんは、横の自動車用信号が黄色になったらソワソワと体制を整え、赤に変わったら、前の歩行者用信号が青に変わるのを待たずに飛び出すのを常としていた。彼女にとって信号というものは若い時からずっと、そうするものだった。
しかし、ある時この交差点の信号は「歩車分離式」に変わってしまった。
歩車分離式になって初めての日。
その日も、サチエさんはこれまで何十年と続けてきたいつもの手順で横断歩道へ飛び出した。
だが、横から来た車に思いっきりクラクションを鳴らされ、運転手からは凄い形相で睨みつけられた。
何がどうなってるのかさっぱり理解できなかった。
いつもと同じで、ちゃんと横の信号を確認したのに・・・。
どうにかこうにか交差点を渡って、すぐの商店に入り、今の不可思議な体験を話した。
商店主は、今日から歩車分離式信号に変わったこと、横の信号ではなく前の歩行者用信号を見なきゃダメだと諭したが、サチエさんが理解、納得したようには見えなかった。
年をとってから新しいことを覚えるのは難しい。ましてや、今まで当たり前にやっていたことのやり方が変わってしまったのだ。
なにか自信をなくした感じもする。
サチエさんは、この交差点を渡るのが怖くなった。どうしても新しい信号になじめず、遠回りをして帰るようになる。
サチエさんに変化が現れたのはそれからすぐのことだった。
いや、歩車分離式信号が原因だとは決して思わない。サチエさんもそういう年齢になったということだ。
寄り道先でサチエさんは筋の通らないことや妄想じみたことを喋るようになった。夜中に包丁を持った男が家の中をウロウロしていると語るのを聞いたこともある。千円札と一万円札の区別がつかなかった時もあった。
それから暫くして、東京で子供さんと一緒に暮らすようになったと聞き、近所の者たちは少し安堵した。
その1年くらい後、角打ちのT酒店も閉店した。