炭坑夫の末裔たち

かつて炭坑で賑わったまちの日常譚。飽くまでフィクション、です。

ヨシオ婆さん

ばってん荒川志村けん由利徹桑原和男、青島幸雄・・・。著名な「男の婆さん」を挙げてみた。

三年前に亡くなったヨシオ婆さんは、市井の人だが、本物の「男の婆さん」だった。

 

ヨシオ婆さんが生まれたのは、県北部の観光地として有名な城下町。古風で閉鎖的なその土地では、ヨシオ婆さんのような嗜好への偏見は強く、身内ですら味方になってくれなかった。いやむしろ、親兄弟は他人にもまして激しく嫌悪の情をぶつけてきた。まだ20歳にもならない頃、周囲の非難や好奇の視線から逃げるようにしてこの炭坑町へやってきたらしい。

炭坑町は各地から様々な背景をもった人間が集まっていた。肉体労働者の町に特有のザラザラとした荒い空気が支配したが、一方で他所者やマイノリティに対してもオープンで優しい面があった。

 

ヨシオ婆さんがこのまちに住みついたのは昭和20年代後半。復興そして高度成長の活気に満ちていた。明日には命を落とすかもしれぬ炭坑労働者たち、とくに家族を持たぬ男達はただ刹那的に飲んで遊んだ。おかげで夜の街はエネルギッシュで常に愉快な空気が漂っていた。そんな世界に、ヨシオ婆さんもちょうどよい居場所を見つけることができたのだ。

 

私は晩年のヨシオ婆さんしか知らない。若いころのヨシオ婆さんがどんな感じだったのか、まるで想像がつかない。映画版『麻雀放浪記』で内藤陳が演じる「おりんさん」みたいな感じだったのかしら?などと想像している。この土地に落ち着いてから半世紀以上、その間、一時的に昼間の仕事をしてみたり、自分の店を開いたり閉めたり、再び人の店に雇われてみたり・・・いろんなことがあったらしい。

何歳ぐらいからそうなのか、すでに両目とも視力を失っていた。だが、格好はいつも女物の着物で志村婆さんがするように髪を丸くまとめており、歳相応の女装に手抜かりはなかった。

市の郊外に、戦後すぐ(もしかしたら戦前?)に建てられた炭鉱住宅を転用したような感じの大規模な市営住宅があり、ヨシオ婆さんはそこに住んでいた。近所とは長い付き合いで、皆がいろいろと世話を焼いてくれる。団地内の婆さん(女の婆さん)たちからは「奥様」と呼ばれていた。ということは、昔は旦那と一緒に暮らしていたのだろうか。

  

そんなヨシオ婆さんだが、亡くなる2~3年くらい前に病気で入院したことがあった。

果たして、その一か月ほどの入院中いったい何が起こったのだろう。退院してきたヨシオ婆さんは、なんと、すっかり爺さんになっていた。

ステテコに丸首のシャツと腹巻き、髪は短い角刈り。

変化は恰好だけでない。ヨシオさんが「にょうぼう」と呼ぶ世話焼き婆さんが現れ、一緒に夫婦として暮らし始めたのだ。若干ややこしいが、男の婆さんが爺さんになって、女の婆さんの女房が出来た。

ヨシオさんには年金のほかいくつかの手当てがあるらしく、贅沢や娯楽に使う金は無かったものの、食べるに困ってはなかった。一方、「にょうぼう」の方はこれまでどうやって暮らしてたのかしらないが、まともな収入はない。どうやらヨシオさんの収入に頼る代わりに、身の回りの世話を一切引き受けている様子だった。もしかしたら、夜の世界での古くからの友人なのかもしれない。

この「にょうぼう」には3~4人の連れ子がいた。と言っても、皆成人してはいる。しかし、この無職の子どもたち全員が頼りない。不真面目だとか、チンピラだとか、引きこもっているとか、ニートだとか、そういう感じではなく、ただ、一般的な職場で彼らがこなせる仕事を見つけるのは困難だろうと、知力の点で感じた。

近所の婆さんが心配していたが、彼らは現金が手に入るとスーパーで全部使ってありったけの食料品を買ってくるらしい。買ってきた野菜、肉、豆腐、麺などの食材をつぎからつぎへと鍋に放り込む。それを皆でひたすら食いまくる。食えなくなって吐くのだが、それでも食い続ける。「だから、あの子らには少しずつ金を渡さんといけん。」と言っていた。

 

でも、行政が福祉の手を差し伸べるまでには至らないらしい。

ちなみに、彼らは生活保護も受けてない。

しかし、「若くて体に悪いところは無いのだから、いくらでも働けるはずだ。」と言うのは、あまりに幼稚で薄っぺらな見識だろう。彼らみたいな弱い人間を騙し、利用するような小汚い奴らがこの辺にもチラホラいる。いくら役人さんでも、そういう醜悪な連中がこのまちには存在する現実が感知できないほどの世間知らずでなかろうに。

いわゆる福祉の網の目からこぼれた存在である彼らと彼らの母親である「にょうぼう」を、ヨシオさんは年金その他の手当で養っていた。

 

三年前の正月明けて暫く経った頃、ヨシオさんが入浴中に心臓発作で亡くなったと聞き、僅かばかりの香典をもっていった。

部屋には「にょうぼう」と子供達がいた。簡素な位牌と骨壷、香炉だけが、葬儀社が貸してくれたのだろう白木の小さな台の上にのっていた。写真とかは無かった。

玄関先で香典だけ渡して帰るつもりだったが、長男と思われる人からたどたどしい口調で、線香をあげていってくださいと言われ、お茶と菓子も出してくれた。

なまじ、この程度の社交性というか常識を持ち合せているものだから、却ってセーフティーネットから滑り落ちてしまうのか、と思いながら帰路についた。

 

最近に聞いた話では、近所の婆さん達がときどき小遣い銭を渡したり、食事の心配をしたりで、今のところ彼らもなんとかやっているらしい。