炭坑夫の末裔たち

かつて炭坑で賑わったまちの日常譚。飽くまでフィクション、です。

石炭を売っていたという早野の爺さん

早野という爺さんがいる。

だいぶ老いてはいるが、気はシッカリしている。昼間、自転車をすいすい漕いでどこかへ出かける姿がよく見られる。

 

暇なのか元来の話好きなのかは知らないが、近所の者を捕まえてはいろいろと話して聞かせる。例えば、電車の中で突然便意が襲ってきたときに効くツボの位置だとか、自身が出入りしている政治団体だか宗教団体だかの話だとか・・・。

若い頃は強面というか危険な男だったらしい。昔を知る人によれば「気を付けとかんと、あの爺さんいきなり本性現してきよるぞ。」とのことだ。そう言えばどこか田原総一郎にも似た目元は、達観しているというか、いろんな世間を見てきた目という印象がある。

昭和30年代には石炭の小売だか卸売だかの商売をやっていたようだ。掘る方ではなくて、出てきた石炭を仕入れてどこかに運んだりする方だ。炭坑ほどではなくても、それなりに扱いにくい連中を束ねて使っていくわけだから、やはり早野の爺さんもそれなり以上だったのだろう。

 

早野の爺さんはアパートを持っていて、現在はその家賃で食っている。この辺りの地方都市では珍しい共同玄関、共同便所、共同炊事場の建物で、築50年くらい経っていそうだ。風呂も共同のがあって、掃除は住人が当番で行っている。住んでるのは高齢者ばかりで、ほとんどが炭坑などで働いていた元労働者だ。ほぼ全員が生活保護を受けている。

 

当初、風呂や炊事場のガス代や水道代は早野の爺さんが負担していたが、住人達の使い方がルーズな事に腹を立て、今後は実費を住人で案分して負担してもらうと宣言した。

住人達は猛反発し、住人達vs.家主の対立がしばらく続いたが、共益費を一人月1,000円ずつ支払うことで妥結した。

 

闘争に敗北した早野の爺さんは悔しそうにぼやいた。

「あいつら炭坑の奴らは、光熱費やらなんやらは全部タダが当たり前と思ってるから始末に負えん・・・」

そう、炭坑は福利厚生が充実しており生活費のかなりを会社が負担していた。町内に会社が用意した共同浴場があり炭坑夫と家族たちはタダで利用できた。炭坑の社宅は、簡素なものではあるが、家賃も光熱費もタダ。なんと散髪代まで炭坑会社が負担した。市内に理髪店、美容院が多いのはそこに遡るとも言われている。

今でもこのまちには、その感覚が抜けない年寄が残っている。年寄りだけならまだしも、若い世代の中にも親や祖父母からその感覚を承継する者もいて、モンスター消費者としての姿を現す場面もある。

 

ともかく、炭坑はブラックな職場であったのは間違いないが、従業者たちの面倒はよく見ていたようだ。まあ、経営者にしてみれば人の福利厚生というよりも、機械設備のメンテ代くらいの感覚だったのかもしれないが・・・。労働者を一人前の人間として扱っていなかった裏返しという解釈もあるだろう。

 

ところで、命の危険がすぐそこにあることが日常だった炭坑と比べるのは違うとお叱りを受けるかもしれないが、今頃のブラック企業はどうだろうか。搾るだけ搾っておいて、その先は自己責任でと片づけるのは虫のいい話に聞こえる。

道具として扱うならそれで、道具のメンテは使用者がするものではないだろうか。まだ昔の炭坑の方が筋が通っているかもしれない。