炭坑夫の末裔たち

かつて炭坑で賑わったまちの日常譚。飽くまでフィクション、です。

図書館のジイさん、自転車のバアさん

 日曜日のためか市立図書館は多くの利用者が来館していた。

 しかし、その割には職員数が足りないように思えた。普段よりも1,2人少ないのではなかろうか?貸出カウンター前には手続きを待つ人々が滞留している。

 いや、滞留の原因は員数不足だけではないようだ。70歳ちかい老人男性への対応で1ヶ所の窓口と2人の職員ががふさがってしまっていたのだ。なにをトラブっているのかと様子を見る。

 老人はタウンページを開きながらなにか喋っている。職員が「いやあ、◯◯町には個人病院はあっても総合病院はないようですよ・・・。」と言うと、老人は「そんなことあるかあー!!」と声を荒げる。「わしの親戚からそう聞いちょるんじゃあ!」

 どうやら誰かの見舞いに行く途中、道を聞くためだけにこの図書館へ寄ったらしい。図書館なら地図も電話帳もある。泥のついた長靴に作業着、どうやら郊外のほうから来た様子だ。このへんの地理には不案内なのだろう。しかも覚えている病院名が間違っているみたいで、図書館職員も知らないしタウンページにも載っていない。

 どう考えても、このジイさんが親戚に再確認するなり、出直すなりするしか無い問題なのだが、しかしジイさんは図書館の職員が解決して当然という態度だ。

 

 ちょっと前の出来事を思い出した。

 道で自転車に乗ったバアさんに「☓☓町はどのへんか?」と尋ねられた。さらに真っ直ぐ300m位進んだ先に少し大きな交差点があり、そこから向こうが☓☓町だと教えてあげた。すると今度は「共産党の生活相談センターはどこか?」と言う。そんなのは知らないので、「それは判らない」と応えると、ヒステリックな声で「ちょっと、すぐ調べてよ!!」と叫ぶ。

 ムカッと来たので、

 「ハア!?あんた何様のつもりだ!?大体、目的地のあてもなく、自分で調べもせず出てくるなんて、いい歳こいてあんた馬鹿か?」

と強めに諭してやり、立ち去った。

 

 高齢者、というよりも世代特有の問題かもしれない。たんに団塊周辺特有の横柄さの問題かもしれない。

 ただ、既に高齢化した地域の日常ってのはこんな感じだ。

三上さんの隣のカルト

 近所のアパートで独り暮らしだった三上さんは、72歳という割には風貌も若々しく、人懐っこくて社交的な性格だった。スリムな体形にいつもジーンズ。もちろん"Mom Jeans"なんかじゃない、普通のジーパンだ。口ひげをたくわえ、晩年のチェット・ベイカーにもどこか似ている。若いころはけっこうな美男子だったはずだ。

 そんな三上さんが倒れて救急車が呼ばれ、なんとその晩のうちに搬送先のO病院で亡くなった。前日の朝、私が道で出会ったときは元気だったし、入院した時も普通に会話できていたらしいのだが。救急指定病院のなかでもO病院だけは絶対にヤバい、という地元民の風評がもっともらしく思えてくる。

 

 その日の昼食後、三上さんはとつぜん気分が悪くなり、自宅アパートの玄関でうずくまっていたらしい。偶然に訪れた市の職員に発見され、救急車が手配された。一人暮らしで身内の所在も不明だったため、近所に住む家主に連絡が入った。

 ほどなく救急車が到着したがアパート入口の路地は狭く、ぎりぎり車体が入れるほど。じわり、じわりと少しずつ近づく車体を待つことの何ともどかしかったことか。その間、別の救急隊員により三上さんの容態が確認される

 

 しかしこのとき、タイミング悪くアパートの隣部屋の住人が車で帰ってきた。隣は50歳くらいの母親と20歳くらいの娘の二人暮らし世帯だが、その娘の方だった。

 救急車で入口がふさがれているため、自分のワゴンRが進入できないと気付くや、娘はけたたましくクラクションを鳴らした。ヤンキー車に似合う下品で間抜けな音が「パアアアアアン、パアアアアアン、パアアアアアアアン」と響く。運転席にはあごを突き出し鼻の穴を広げたプリン頭の女が救急隊員を睨みつけている。

 このバカ娘は、白地に赤いストライプがはいったハイエースが停車し、屋根の赤い回転灯がくるくる回っている状態が、いったいどんな状況を意味しているのかわからないのだろうか?

 

 ところで、すぐ近所にTストアというディスカウントストアがある。このTストア、激安だが値段相応に怪しい商品ラインナップで知られている。生鮮食料品も激安品が置いてあり、それなりに需要があり売れているらしいが、正直言って私は買いたくない。また、近所の者は冗談で「あそこは商品の仕入れ値だけじゃなくて人件費も激安に違いない」と囁き合っている。事実、店員の表情や声は暗く、レジ係の動作も緩慢で、「こりゃ安く上げたな」との思いを禁じえない。

  実は、隣の母娘はそろってこのTストアで働いている。娘はその休み時間に家に戻ってきたというわけだ。

 

 少し待ってもらえるように救急隊員が状況の説明を試みたが、聞く耳を持たぬ。そっぽを向いてクラクションを鳴らし続ける。救急車はいったん表通りへ出ざるを得なかった。

 アパートの前までクルマをつけたあと、娘は部屋に入っていった。かと思うと、ほんの2~3分で出てきて、また車に乗って立ち去った。

 

 野次馬に来ていた近所の者たちも呆気にとられた。

「なんじゃあ、あのクズは!今度見かけたら蹴りあげちゃろいね!」

 血気盛んなオバサンが叫ぶ。

 それに応えて、昔からこの家族を知る自治会の班長さんは、娘の非常識を責め立ててやるなと釘をさす。

「しかしあの子もねえ、ほんと不憫。可哀相なんだよ。」

 

 班長さんの説明は、こんな感じだった。

 

 娘の母親は某キリスト教カルト教団のベテラン信者だ。十年ちょっと前に地元の金融機関に勤める夫と離婚し娘と二人で暮らし始めたのも、母親の信仰からくる非社会的な行動や子育て方針での意見の相違が原因だった。

 たとえば異教の信仰や土着的な風習に対する不寛容は徹底していた。親戚や近所の人の葬儀も異教のものなら参列しない。クリスマスや親戚友人の誕生会には参加しないし祝いの言葉も述べない。墓参りには行かない。年賀状は出さない。新年最初に会っても「あけましておめでとうございます」と言わない。節分は参加しない。命を落とす危険があっても輸血は行わない、血抜きが徹底されてないという理由でクジラ肉は食わない。学校の体育での武道の授業はボイコット(だが単位は要求)。・・・などなど、人づきあいの弊害になるような禁忌が多い。

 母親は自分でそうするだけではなく、まだ小学校低学年だった娘にもそう行動させた。級友だけでない、教師を含む周囲の大人も容赦なく奇異の視線を寄こしてきた。

 親戚や周囲の者たちは、小さな子供に自分の信仰を押付けるのはやめるべきだと注意した。が、それらの行動は娘が自分の信仰にもとづいて選んだ行動だと主張し、娘にもそう語らせた。小学校低学年の子供が、だ。何たるナンセンス!であるが当時、夫や親戚たちも疲れて匙を投げてしまった。

 

 出口なし。

 娘も成長し、中学校卒業が近づき、進路を考える時期になる。

 学校での成績は悪くはなかった。普通に県立進学校にも余裕で合格できたはずだ。しかし、学問を修めたり、一般的な職業に就くのを希望することは、カルト内では「世俗的なこと」と否定された。娘は、(おそらく不本意ながら)このカルトの専従職員的な信者を目指すと言わざるを得なかった。

 進学のための勉強も許されず、憧れる職業を語ることも憚られた。そのころ、本当は何をしたかったのだろう、何になりたかったのだろう。この娘に聞いても絶対に教えてはくれないだろうし、もしかしたら本人も既に分からなくなっているかも。

 ただ、カルトの専従職員になりたいというのは、やはり本心でなかったようだ。結局、娘は教団を離脱し、いまはTストアのレジ係として日々をやり過ごしている。

 まだまだ若い、やり直しは効く。というのは、歳を重ねた人間の言い草だろうか。

 

 そういえば、三上さんが生前に言ってたことを思い出した。真夜中、隣から激しい喧嘩が聞こえてくることがよくある。昼間は無口な娘が化け物みたいな声で母親をなじり、何かが投げつけられる音がするそうだ。

ブタ兄弟

この町に胡散臭い人間はゴロゴロといるが、顔の広さとフットワークの軽さでいえばこのブタ兄弟の二人だろう。

兄の方はもう70歳位になるはず、最近はあまり姿を見ない。先代の故林家三平に似た風貌。世間の評判では、「兄の方がまだマトモで信用できる」とのこと。

弟は団塊世代のど真ん中。バカボンが大人になって還暦過ぎたらこんな感じだろうな、と思わせる顔をしている。

単に二人揃って肥満というだけでなく、フェイス的な問題であるとか、滲みでてくる浅ましさなどから、いつしか「ブタ兄弟」と陰口されるようになった。

 

もともとは親戚が経営していた建築資材販売の会社を、兄が継いで経営していたのだが、いつの間にか弟もそこに転がり込んできた。

時代の変化だけが原因なのか、或いは経営陣にも問題があったのか、いつしか会社は左前、従業員も皆去り、20年以上前から本来の業務は全く行っていない。だが、会社名は登記簿に残っており、いかにも建築資材を販売してるマトモな会社と錯覚しそうな名前を使って、不動産屋の真似事やインチキコンサルなどを生業としている。

たとえば、金に困っている人物と、ちょっと甘いとこのある小金持ちを、双方に美味いこと言って引き合わせる。仲介により融資となるが、ブタ兄弟が双方に説明している条件が実は微妙に違っている。世の中そんなオイシイ話が向こうから簡単に転がり込んでくるわけないけれど、ムシのいいことばかり考えてる人間はこんなイカサマにコロリとやられる。ブタ兄弟はまるでトリュフを探し当てるように、そんな人間を嗅ぎ分けることに長けている。このときブタ兄弟は仲介役として報酬を抜いているだけでなく、あれやこれやの事務手数料も確実に拾っていく。後になって、双方の思惑が異なっていることが露見して文句が出るどころではないが、ブタ兄弟は平気とのらりくらりやり過ごす。

 

自治体レベルのマイナーな補助金の情報にも耳が早く、取って付けたようなその場しのぎのプランで補助金をゲットするのも得意技だ。もちろん、補助金の切れ目が事業の切れ目という生き芽のないプランである。血税はこうして弟ブタのカラオケスナックでの飲み代に消えてゆく。

 

流行りものに飛びつくのも好きだ。7、8年前には高齢者向けの介護施設運営にイッチョ噛みしようと企んでいた。結局は周囲を引きずりまわしてフェードアウト。関係者の大半にとっては今では苦い思い出でしかないが、なかには人生が大幅に狂ってしまった者もいた。

 

要は、金の臭いにだけは敏感なブタ兄弟は、ノウハウも実力もないくせに力ずくで形にしようとするのだ。役所に勤める知人との細いパイプ、付け焼刃で勉強した業界事情・・・。こんな連中と組むのも、やはりノウハウもなく事情に疎い人物となる。

プロジェクトとしての失敗は必至。でもブタ兄弟がなんだかんだとギャラをかすめ取る理由だけはできる。

 

で、最近は何をしているのかというと、定年退職したオッサンらを集めて山の中で米を作っているらしい。集約してコストダウンというトレンドからみてもアウトだし、将来性のある若者に投資するという意義もない。環境問題もど素人というか受け売りを喋る程度。「過疎対策です」という上っ面の言葉がインチキっぽさを盛りたてる。

あと何年コメづくりを出来るのか、おそらくまともなコメが作れるようになるまではもたないような将来性のない素人ジジイ達の集団。

 

ああ、今日も補助金が入ったエサ箱にブタが鼻を突っ込んでいる。ブヒ、ブヒ、ブヒイイイ。

 

ヨシオ婆さん

ばってん荒川志村けん由利徹桑原和男、青島幸雄・・・。著名な「男の婆さん」を挙げてみた。

三年前に亡くなったヨシオ婆さんは、市井の人だが、本物の「男の婆さん」だった。

 

ヨシオ婆さんが生まれたのは、県北部の観光地として有名な城下町。古風で閉鎖的なその土地では、ヨシオ婆さんのような嗜好への偏見は強く、身内ですら味方になってくれなかった。いやむしろ、親兄弟は他人にもまして激しく嫌悪の情をぶつけてきた。まだ20歳にもならない頃、周囲の非難や好奇の視線から逃げるようにしてこの炭坑町へやってきたらしい。

炭坑町は各地から様々な背景をもった人間が集まっていた。肉体労働者の町に特有のザラザラとした荒い空気が支配したが、一方で他所者やマイノリティに対してもオープンで優しい面があった。

 

ヨシオ婆さんがこのまちに住みついたのは昭和20年代後半。復興そして高度成長の活気に満ちていた。明日には命を落とすかもしれぬ炭坑労働者たち、とくに家族を持たぬ男達はただ刹那的に飲んで遊んだ。おかげで夜の街はエネルギッシュで常に愉快な空気が漂っていた。そんな世界に、ヨシオ婆さんもちょうどよい居場所を見つけることができたのだ。

 

私は晩年のヨシオ婆さんしか知らない。若いころのヨシオ婆さんがどんな感じだったのか、まるで想像がつかない。映画版『麻雀放浪記』で内藤陳が演じる「おりんさん」みたいな感じだったのかしら?などと想像している。この土地に落ち着いてから半世紀以上、その間、一時的に昼間の仕事をしてみたり、自分の店を開いたり閉めたり、再び人の店に雇われてみたり・・・いろんなことがあったらしい。

何歳ぐらいからそうなのか、すでに両目とも視力を失っていた。だが、格好はいつも女物の着物で志村婆さんがするように髪を丸くまとめており、歳相応の女装に手抜かりはなかった。

市の郊外に、戦後すぐ(もしかしたら戦前?)に建てられた炭鉱住宅を転用したような感じの大規模な市営住宅があり、ヨシオ婆さんはそこに住んでいた。近所とは長い付き合いで、皆がいろいろと世話を焼いてくれる。団地内の婆さん(女の婆さん)たちからは「奥様」と呼ばれていた。ということは、昔は旦那と一緒に暮らしていたのだろうか。

  

そんなヨシオ婆さんだが、亡くなる2~3年くらい前に病気で入院したことがあった。

果たして、その一か月ほどの入院中いったい何が起こったのだろう。退院してきたヨシオ婆さんは、なんと、すっかり爺さんになっていた。

ステテコに丸首のシャツと腹巻き、髪は短い角刈り。

変化は恰好だけでない。ヨシオさんが「にょうぼう」と呼ぶ世話焼き婆さんが現れ、一緒に夫婦として暮らし始めたのだ。若干ややこしいが、男の婆さんが爺さんになって、女の婆さんの女房が出来た。

ヨシオさんには年金のほかいくつかの手当てがあるらしく、贅沢や娯楽に使う金は無かったものの、食べるに困ってはなかった。一方、「にょうぼう」の方はこれまでどうやって暮らしてたのかしらないが、まともな収入はない。どうやらヨシオさんの収入に頼る代わりに、身の回りの世話を一切引き受けている様子だった。もしかしたら、夜の世界での古くからの友人なのかもしれない。

この「にょうぼう」には3~4人の連れ子がいた。と言っても、皆成人してはいる。しかし、この無職の子どもたち全員が頼りない。不真面目だとか、チンピラだとか、引きこもっているとか、ニートだとか、そういう感じではなく、ただ、一般的な職場で彼らがこなせる仕事を見つけるのは困難だろうと、知力の点で感じた。

近所の婆さんが心配していたが、彼らは現金が手に入るとスーパーで全部使ってありったけの食料品を買ってくるらしい。買ってきた野菜、肉、豆腐、麺などの食材をつぎからつぎへと鍋に放り込む。それを皆でひたすら食いまくる。食えなくなって吐くのだが、それでも食い続ける。「だから、あの子らには少しずつ金を渡さんといけん。」と言っていた。

 

でも、行政が福祉の手を差し伸べるまでには至らないらしい。

ちなみに、彼らは生活保護も受けてない。

しかし、「若くて体に悪いところは無いのだから、いくらでも働けるはずだ。」と言うのは、あまりに幼稚で薄っぺらな見識だろう。彼らみたいな弱い人間を騙し、利用するような小汚い奴らがこの辺にもチラホラいる。いくら役人さんでも、そういう醜悪な連中がこのまちには存在する現実が感知できないほどの世間知らずでなかろうに。

いわゆる福祉の網の目からこぼれた存在である彼らと彼らの母親である「にょうぼう」を、ヨシオさんは年金その他の手当で養っていた。

 

三年前の正月明けて暫く経った頃、ヨシオさんが入浴中に心臓発作で亡くなったと聞き、僅かばかりの香典をもっていった。

部屋には「にょうぼう」と子供達がいた。簡素な位牌と骨壷、香炉だけが、葬儀社が貸してくれたのだろう白木の小さな台の上にのっていた。写真とかは無かった。

玄関先で香典だけ渡して帰るつもりだったが、長男と思われる人からたどたどしい口調で、線香をあげていってくださいと言われ、お茶と菓子も出してくれた。

なまじ、この程度の社交性というか常識を持ち合せているものだから、却ってセーフティーネットから滑り落ちてしまうのか、と思いながら帰路についた。

 

最近に聞いた話では、近所の婆さん達がときどき小遣い銭を渡したり、食事の心配をしたりで、今のところ彼らもなんとかやっているらしい。

石炭を売っていたという早野の爺さん

早野という爺さんがいる。

だいぶ老いてはいるが、気はシッカリしている。昼間、自転車をすいすい漕いでどこかへ出かける姿がよく見られる。

 

暇なのか元来の話好きなのかは知らないが、近所の者を捕まえてはいろいろと話して聞かせる。例えば、電車の中で突然便意が襲ってきたときに効くツボの位置だとか、自身が出入りしている政治団体だか宗教団体だかの話だとか・・・。

若い頃は強面というか危険な男だったらしい。昔を知る人によれば「気を付けとかんと、あの爺さんいきなり本性現してきよるぞ。」とのことだ。そう言えばどこか田原総一郎にも似た目元は、達観しているというか、いろんな世間を見てきた目という印象がある。

昭和30年代には石炭の小売だか卸売だかの商売をやっていたようだ。掘る方ではなくて、出てきた石炭を仕入れてどこかに運んだりする方だ。炭坑ほどではなくても、それなりに扱いにくい連中を束ねて使っていくわけだから、やはり早野の爺さんもそれなり以上だったのだろう。

 

早野の爺さんはアパートを持っていて、現在はその家賃で食っている。この辺りの地方都市では珍しい共同玄関、共同便所、共同炊事場の建物で、築50年くらい経っていそうだ。風呂も共同のがあって、掃除は住人が当番で行っている。住んでるのは高齢者ばかりで、ほとんどが炭坑などで働いていた元労働者だ。ほぼ全員が生活保護を受けている。

 

当初、風呂や炊事場のガス代や水道代は早野の爺さんが負担していたが、住人達の使い方がルーズな事に腹を立て、今後は実費を住人で案分して負担してもらうと宣言した。

住人達は猛反発し、住人達vs.家主の対立がしばらく続いたが、共益費を一人月1,000円ずつ支払うことで妥結した。

 

闘争に敗北した早野の爺さんは悔しそうにぼやいた。

「あいつら炭坑の奴らは、光熱費やらなんやらは全部タダが当たり前と思ってるから始末に負えん・・・」

そう、炭坑は福利厚生が充実しており生活費のかなりを会社が負担していた。町内に会社が用意した共同浴場があり炭坑夫と家族たちはタダで利用できた。炭坑の社宅は、簡素なものではあるが、家賃も光熱費もタダ。なんと散髪代まで炭坑会社が負担した。市内に理髪店、美容院が多いのはそこに遡るとも言われている。

今でもこのまちには、その感覚が抜けない年寄が残っている。年寄りだけならまだしも、若い世代の中にも親や祖父母からその感覚を承継する者もいて、モンスター消費者としての姿を現す場面もある。

 

ともかく、炭坑はブラックな職場であったのは間違いないが、従業者たちの面倒はよく見ていたようだ。まあ、経営者にしてみれば人の福利厚生というよりも、機械設備のメンテ代くらいの感覚だったのかもしれないが・・・。労働者を一人前の人間として扱っていなかった裏返しという解釈もあるだろう。

 

ところで、命の危険がすぐそこにあることが日常だった炭坑と比べるのは違うとお叱りを受けるかもしれないが、今頃のブラック企業はどうだろうか。搾るだけ搾っておいて、その先は自己責任でと片づけるのは虫のいい話に聞こえる。

道具として扱うならそれで、道具のメンテは使用者がするものではないだろうか。まだ昔の炭坑の方が筋が通っているかもしれない。

 

宅配ピザ

このまちの人口は17万人ちょい。その割には多すぎるのではないかと思われる商売がいくつかある。整骨院、歯科医院、理容・美容院、スナック、ケーキ屋など。整骨院の多さはここがかつての炭坑町であったことの名残だろう。スナックの多さは、このまちには女性の社会進出の場が少ないことをうかがわせる。

 

一方、なんでこんなに少ないの?と思われるサービスもある。宅配ピザもその一つだった。

今でこそ、全国区のP社が進出しているが、それまでは地元独立系ピザ店が入れ替わり立ち替わりしながら、市内にほぼ2,3軒で推移していた。

 

5年くらい前に閉店したBという店はよく利用していた。場所はまちの真ん中に位置し、某大学キャンパスのすぐ横、学校内や近くの下宿などが主な得意先だったのだろうか。

おそらく学生を意識したのであろう、宅配ピザとしては安かった。Lサイズでもモノによっては1,000円切っていた。メニューもマルゲリータやミックスなど定番の他に、餅やらを使った和風のモノや、照り焼き風、お好み焼き風、などなど普通に充実していたが、どれも低めの価格だった。

 

今から20年くらい前だろうか、オープンして間もない頃に早速注文してみた。

家の前に止まったのはピザ屋のロゴが入ったホンダ・ジャイロではなく、白いスバル・サンバーのパネルトラックだったことが印象に残っている。

ピザ1枚運ぶには幾分と広すぎる荷室から商品を取りだしたのは、ピザ屋らしい若いお兄ちゃんではなく牟田悌三みたいなおじいちゃんだった。

アメリカンなデリバリーの雰囲気を出すためか、頭にキャップを被っていたが、どちらかというと青果市場にいる業者のように見えた。

 

その時頼んだピザは何だったのか記憶にはないが、ポスティングされていたチラシについていたチケットで貰ったフライドポテトの味は覚えている。

一口食べて「何か違う」と感じた。ふた口目、ゆっくり食べてみて判った。ポテトにふりかけられていたのは塩ではなく、アジシオだった。

この妙に和風で滋味なフライドポテトを頼んだのは、結局この時が最後となってしまった。

Fさんの奥さんが立ち上がった日

佐村河内守とかいう人が話題になっている。

私はつい数日前までこの人の存在を知らなかった。このずいぶんと重たそうな名前を初めて見たときは、「サムラカワチノカミ」という昔の殿様の話かと思った。

世間には麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚のエピソードと重ね合わせた方も多かったようだ。盲目であるはずの尊師が週刊少年ジャンプを読んで笑っている姿を信者はたびたび目撃していたらしい。

 

ところで私が思い出したのは、近所に住んでいたFさん夫婦のことだった。

旦那は年齢不詳、だが60歳は優に超えていると思えた。だが、それは150cm台の小柄な体格、前歯を含む歯が複数本欠けていたこと、世間からの蔑視に疲れ果てたかの表情に惑わされた思い込みだったのかもしれない。

いつもアポロキャップをかぶり、ジーンズ生地のチョッキを着ていた。足元にはトライアルで買ったエアマックス風のソールの厚い派手なスニーカーを履いていた。

旦那によれば「うちの女房は若い。」そうだ。一説によると当時で30歳前後だったらしい。マツコデラックスのような体型だったが、足がわるくて車椅子なしでは生活できないとのことだった。性格は攻撃的で我が強く、旦那は尻に敷かれているというよりも、支配されているという感じだ。

 

二人とも無職で生活保護を受けている。暮らし向きは決して楽ではないと思う。ただ、もともとの受給額も大したものではないのだが、その少ない保護費でさえまとまって入るとパーっと飲み食いに使ってしまう悪い傾向があった。二人とも計画的に使うことができないのだ。古く崩れそうな借家はゴミ屋敷で、家賃、光熱費の滞納もひどかったらしい。

 

昼間、巨体の妻がデンとふんぞり返って座る車椅子を、痩せて小柄な旦那が汗をダラダラ流しながら押して散歩する姿をよく見かけた。

散歩の途中はいつも怒鳴り合うような大声で会話するものだから、周囲にも丸聞こえだ。

「あの弁護士は役に立たん!!」

怒気のこもった声で妻が叫んでいた。何の話かは分からないが、恐らくは借りた金を返したくないとか、買った物の代金を払いたくないといった相談なのだろう。噂では通販で買い物して代金を振り込まない常習者で、ついにどこの通販会社も相手にしなくなったと言われていた。

 

そんなある日、なんと二人に子供が生まれていた。

奥さんの体型もあり、妊娠していることに近所は誰も気付かなかった。突然の出来事だった。

この子が成人する時、Fさんは何歳になるのだろう?というか生きてるのだろうか?

まあとにかく、お祝いの言葉を掛けた近所の者たちにFさんは笑顔でこういった。

「これで、うちの女房も元気になることでしょう・・・」

はたして数日後、旦那のこの予言の通りになった。

歩けなかったはずの奥さんが車椅子なしでスタスタと歩いているのだ。

「どうやら子供が生まれて手当てが増えたのだろう。面倒な思いをして車椅子の演技を続ける必要が無くなったのではないか・・・」

と、邪推する者も複数いた。

 

あれから、もう10年が経つ。

Fさん一家は老朽化した借家の取り壊しに伴い、別の町内へ引っ越した。

たまに見かけることがある。Fさんが当時60歳を優に超えてたとすれば、現在は70歳を優に超えていることになるが、いたって元気そうだ。先日も成長した子供と一緒にいるのを見かけた。アポロキャップとジーンズ生地のチョッキは相変わらずだったが、先のとんがった靴を履いてスマホをいじりながらバス停に佇んでいた。

もしかしたら、思っていたよりずっと若いのかもしれない。